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安達正興のハード@コラム
吉村長慶(10)東大寺から春日大社へ〈 2010年 4月 15日 木曜日 )
●大砲付き(だった)石灯−左写真
長慶モノ歩きを続けましょう。大仏殿前向かって右側にに鏡池がある。池の北西角、大仏殿の入口に近い所にズングリした頭デッカチの石灯があります。高さ2。、八幡形とよぶ笠とてっぺんのギボシが大きく、もともとズングリした石灯ですが、これは竿台が土中から少しだけ地面に出して半分以上が埋められている。変ですネ。長慶さんは台に大砲の筒を象った石柱を竿台に通して、つまり大砲を踏んづける反戦世界平和を表現したのですが、この大砲の部分が土中に埋められた。竿の刻文は「奉献大仏殿希世界平和 富士剣が峰定座 奈良市西鍋長主 宇宙居士 吉村長(慶は土中)明治四十三年建」。希世界平和の石灯なのです。富士剣が峰定座とは長慶さんが富士山に登攀し頂上剣が峰に生髮を埋めたことをいう。西鍋長主とは、吉村家は京都で梵鐘を造る鋳物師の家系だったがある乱に巻き込まれ加茂の辺りで鍋や風呂釜を造るようになり、その頃鍋長さんと呼び名がついた。初代長蔵さんが奈良まちに住んで質商をはじめたが人は吉村質商に行く時、T鍋長さんへ行くUと言い習わしていた。長慶さんが分家して西吉村家の質商を営んでいたので、自らも「西鍋長主」と名乗ったのです。判りましたか?それから中台にウッスラ紋のようなものは長慶の家紋、後に長慶寺の寺紋としても使われた「九枚笹」です。
なぜこの場所に大砲石灯を置いたか、チャンと理由があります。維新直前、久我大納言が今日の知事県警署長を兼ねる大和國鎮府総督として,家臣、肥後と尾張の藩士160人を従え奈良にやってきた。このとき大砲数門を運んできた。なにしろ勤王田舎侍ですから廃仏毀釈の音頭に乗って、大仏殿をブッ飛ばしてやろうと大砲二門を大仏殿の前に置いたのです。関係者がオロオロするうち、近くに住んでいた中山忠愛朝臣が現場に立ちはだかり「われは中山大納言なり、大仏殿を発砲するならば、先ず我が身より撃て」と仰せられたのですな。勤王藩士は公家の名を聞くや『恐懼して退散』した、と古書(藤田祥光の手稿「維新前夜之奈良」)に書かれている。
この逸話に因んで長慶さんが大砲を踏み押さえる石灯を寄進したのですが、奈良市は太平洋戦争で爆撃されなかったかわりに、戦後は進駐軍が基地を設け、米兵がやたら多かった。それで東大寺側が長慶の意図に反して『大砲は不適切であろう』と筒を土中に埋めた。説明すりゃ米兵は納得し、一躍有名な石灯になっていただろうに。
安達正興のハード@コラム
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